20年目の想い
ブログは書かないと決めていたのにどうしようもない思いが渦巻いて、気持ちを整理したくて書き始めてしまった。
私という1人の人間の20年の思い出と、今の想い。
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福岡に住む私の叔母は相葉くんのファンだった。
叔母は遊びに来るたび、たくさんのビデオテープを持ってきて私に見せた。
私の住んでいる地域は当時テレ朝の放送がなく、私は叔母の持ってきたビデオで初めて8Jを見た。
私より少し年上のジャニーズJr.と呼ばれる子達がたくさん映るその番組で、私は1人の男の子が気になった。
変な髪型にちょっと怠そうな態度で少し鼻につく喋り方をする男の子。
あまり好きなタイプではないなと思った。
でも、その時にはもう落ちていたんだと思う。
気付けばいつも目で追うのはその人で、もっともっと知りたいと思うのもその人しかいなかった。
翔くんに対する気持ちは完全に恋だったと思う。
こうして緩やかに翔くんを好きになりしばらくした頃、翔くんがデビューすることになった。
相葉ちゃんがいる。
にのがいる。
松潤がいる。
あまり知らないけど、大野くんという子がいる。
4人に囲まれて翔くんがいる。
忘れもしない小学6年生の秋、嵐がデビューした。
登校しなければならないギリギリまで、必死になってテレビを見た。
大きな船の上で手を振る翔くんは世界一かっこよかった。
お小遣いはなかったから、デビューシングルはお年玉で買った。
イヤホンから聴く翔くんの歌声はちょっとくすぐったくて、でも凄く嬉しかった。
父にビデオの使い方を教えてもらって嵐が出る番組を録画した。
CMが決まれば流れるであろう番組を丸ごと録画して、早送りしながら確認した。
ドキドキしながら再生したら間違って上書きされていて大泣きしたこともあった。
私の世界の中心は間違いなく翔くんだった。
中学生になってすぐの頃ファーストコンサートがあった。
でも地方の中学生にとっては大阪も横浜も遠くて、お小遣いじゃ到底足りないからと諦めた。
コンサートの情報はしばらくしてから発売される雑誌や会報、ホームページを開設している人がアップしているレポを見て、気に入ったレポは印刷をして何度も読んだ。
私の楽しみは、毎月の雑誌の立ち読みと時々出るCDと歌番組、先輩と出ているバラエティ番組と嵐だけの深夜番組。あとは嵐音。
周波数を合わせているうちに終わってしまったり、隣国の電波が混ざって上手く聴けないこともあったけど、少し夜更かしして聴く5人のラジオが好きだった。
しばらくして、嵐がポニーキャニオンからJ Stormに移籍した。
大手レーベルから嵐しかいない謎のレーベルへ移籍させられて、嵐は事務所やポニキャから見放されたと思った。
でもその後に出た500円のシングルは2枚ともとてもかっこいいしジップロックのようなパッケージもオシャレに見えて、私の中で移籍のことはすぐにどうでもいい話題になった。
中学には嵐を好きな友達はいなくて、この県には私しか嵐ファンがいないんじゃないかと本気で思っていた。
卒業文集の好きな芸能人の欄にちょっとドキドキしながら『櫻井翔』と書いて、私の中学時代は終わった。
高校に入ってすぐの頃、隣の席の女の子と好きな映画の話をした。
私が『青の炎』が好きだと言ったら、その子も好きだと言った。
おそるおそる聞いてみると、その子は私と同じように、デビューの少し前からにのが好きだと恥ずかしそうに答えた。
この県には私しか嵐ファンがいないと思っていた私に、初めて嵐ファンの友達ができた。
それからは、毎日毎日飽きることなく嵐の話をした。
休み時間になるとイヤホンを片耳ずつつけて嵐のアルバムを入れたMDを聴き、放課後は塾に行く前に本屋に寄って今月はどの雑誌を買うか悩むのが日課だった。
にのがドラマに出るとCM中に電話がかかってきて、どのシーンが良かったと一方的に感想を言われ本編が始まると切られた。
なまあらしは勿論こっちでは放送されなかったけど、にのが好きなその子が東京の友達にダビングしてもらったビデオを彼女の家で見させてもらった。
そんな毎日がとにかく幸せだった。
その子から、一緒にコンサートに行こうと誘われた。
嵐が好きで好きでたまらないのにまだコンサートに行ったことがなかった私は、意を決して親に相談した。
こんなにお願いしたのはファンクラブに入りたいと話した時以来だった。
そして、全て自分のお金でやり繰りすることという条件で私は初めてコンサートに行く許可を得た。
バイト禁止の高校だったため毎月3000円のお小遣いでやり繰りしていたが、我が家はテストで100点を取ればボーナスの10000円がゲットできるシステムがあったため、コンサート資金をゲットしたいという不純な動機のおかげで成績はずっと良かった。
初めての嵐のコンサートは、母と妹とそして二宮担と一緒だった。
電車の中で嵐担を見つけては、あの人も嵐ファンなんだ!とコソコソ盛り上がった。新潟駅からのバスでは、初めて自分たち以外のファンに囲まれた。
嵐ファンってこんなにいたんだと嬉しくなった。
初めて自分の名義で取ったチケットは、手を伸ばせばステージに手が届きそうな席だった。
いまだに彼女に言われ続けているけれど、目の前に翔くんがいるのが嬉しすぎて、はじめの数曲は彼女の手を握りながらずっと小さくジャンプをして見ていた。
誰でもいいからうちわを持ってという私の嘆願及ばず、母は家にあったピングーとエルモのプラスチックうちわをダブル持ちしていた。
異様な光景だったんだろう。翔くんは母を3度見くらいしていたし、潤くんは笑っていた。
翔くんって本当にいるんだ…!お顔が小さい!お尻も小さい!汗が飛んできた!こっちを見てくれた!階段を登ってる!穴から出てきた!すごい!ねぇすごいね!かっこいいね!!って止めどなく溢れてきた感情も昨日のように思い出せる。
それ以来数え切れないくらいたくさんの公演に入ってきたけど、初めてはやっぱり特別。
当時はアリーナで1日2公演は普通だったし春夏コンも冬コンもあったけど、都会でやる冬コンは地方の高校生にとっては夢のまた夢で、だから年に1日だけ行ける夏のコンサートが本当に楽しみだった。
大学生になったら一緒に全国をまわろうね。1日2公演入ろうね。冬コンにも行こうね。というのが、私と二宮担の夢だった。
初めての24時間テレビで、相葉くんが泣きながら手紙を読んだ。
『TOPになろうって夢、絶対叶えようね』
この日から私の夢は、嵐がTOPになることになった。
チケットが売れずCMで宣伝をしていたり、DVDの発売日に店頭に商品が並んでいなくて店員に出してもらったりと不遇なこともあったし、Mステの年間ランキングは大体38位あたりが定位置だったけど、それでも絶対TOPになれると思っていた。
パルコのCMに起用されたりどこかのパチンコ屋でLucky Manが流れている噂を聞いたりしては、やっと嵐の時代が来たと喜んだ。
大学1年の終わりに、私はドイツへ留学した。
心配ないだろうけど暫く日本を離れるからと、次に発売されるLove so sweetの初回版を予約してから行った。
しばらくして、二宮担からLove so sweetの初回版がどこにもない、買えないとメールが来た。
どうせまた店員が出してないだけだろうと思ったが、今回は様子が違った。
帰国するとまさに浦島太郎状態。
今まで嵐のあの字も言わなかった人達や、売れていないじゃんと私に心ない言葉をかけてきた人まで嵐を好きだと言ってきた。
それでもまだ1名義で複数チケットは取れたし、Timeは夢だった遠征もできた。でも、もう1つの夢だった冬コンはなくなってしまっていた。
その代わりではないが、アリーナツアーが終わったと思ったらドーム公演が決まった。
正直埋まるか不安だったけど、東京ドームは上も下も嵐ファンで溢れかえっていた。
大きな箱になり手を伸ばせば届く距離ではなくなったけど、5人の嬉しそうな顔を見ていたら私も嬉しくなった。
でもその後、嵐と私たちを取り巻く環境は急速に変わっていった。
テレビの露出が格段に増え、CDやDVDは情報解禁後すぐに予約しないと初回版が買えなくなった。
まだ前回リリース分をちゃんと聞いていないのにCDが出るようになった。
智くんの個展は、東京に住んでいた二宮担の家を始発で出ても整理券がもらえない日があった。
アリーナツアーがなくなってしまって、1日2公演入るという夢は終わってしまった。
この県には私しか嵐ファンがいないと思っていたのに、帰省すると周り中嵐ファンになっていた。
みんなが嵐を凄いと言うようになった。けど、私からしたら嵐は最初からずっと凄いのに今更何を言っているんだろうという感じだった。
嵐が好きだと言うと『最近人気だよね。みんな好きだよね。』と言われた。それが嫌で、周りに嵐が好きだと言えなくなった。
その頃croozという携帯サイトで自分のページを作るのがファンの間で流行り、私も全国にたくさんの嵐ファンの友達ができた。
みんなデビュー前後からずっと嵐を応援してきた仲間だった。でも、この環境の変化に耐えられず嵐から離れてしまった子も多かった。
ドームから、もっと広い国立競技場でコンサートをすることになった。それくらいしないとファンが入りきらなくなった。
コール&レスポンスが揃わなくなって、少し前の曲が流れると周りから『この歌知らない』という声が聞こえた。
前と変わらずコンサートを楽しんでいるだけなのに『あの人たち凄いね笑』とクスクス言われ肩身の狭い思いをすることもあった。
それでも10周年はまだ全国をまわることができたし、周りが変わっても俺らは何も変わらないよと言ってくれる嵐が好きで必死にしがみついていた。
社会人になると、情報解禁後はトイレで必死に予約業務をするのが当たり前になった。
そうしないと、夕方にはもう予約すらできなくなっていたからだ。
でも2012年、あの日からずっと行き続けていたコンサートが初めて外れた。
いつからか1名義1公演しか申し込めなくなっていて、でもそれでもなんとか行けていたのに、遂に嵐に会えない年がやってきた。
正直受け入れられなかった。
グッズを買いに仕事終わりに東京ドームに向かったけど、虚しくなって途中で帰った。
それでも嵐のことは大好きで、私の世界の中心は熱量も変わらずずっと翔くんだった。
2015年、もうチケットすら取れないと諦めていたワクワク学校に、知り合いがチケットを余らせているからと譲ってもらい入ることができた。
そこで私は、初めて翔くん以外の誰かを双眼鏡で追っていることに気付いた。
茶色のふわふわとした髪を揺らし、柔らかく笑うその子を見て私はとてもドキドキした。
櫻井担でいる時の周りに対する不満とかイラつきとか、そういうマイナスな感情を全部無くしてくれる、そんな存在だった。
でも、これまで翔くん一筋だった私は物凄く戸惑った。
掛け持ちなんてあり得ないと思っていたし、あの子の事を好きになると翔くんへの好きが減ってしまうんじゃないかと思って怖かった。
何より、二宮担に何て言えばいいか分からなかった。
その子は少し翔くんに似ていると思った。
雰囲気は全然違うけど、私に新しい角度で物事を見せてくれるような考え方、譲らない強い芯があるところ、ピアノを弾くところ、運動が下手なところ、特定の誰かに向けてファンサをしないところまで。
結局私はその子への気持ちを止められなくなって、その日から私の世界の中心は翔くんと伊野尾くんになった。
JUMPファンの友達が欲しくてツイッターを始めると、段々と友達が増えていった。
みんな優しくてあたたかくて、とげとげしていた私の心を溶かしてくれた。
好きな人の話を好きなようにして、本当に居心地がよかった。
しばらくして、二宮担が二宮担じゃなくなった。彼女はジャニーズではない他の人に夢中になっていた。
いくら私が嵐の話やにのちゃんの話をしても、あまりリアクションがなくなった。
『このままファンクラブに入っていても嵐には数年に1回しか会えないけど、今好きな人はたくさん会えるんだ。』と彼女は言った。
とても寂しかったけど、でも何も言い返せなかった。だって実際そうだから。
ファンクラブだってただじゃない。
このままずっと継続していても、1日2公演入る夢も、全国をまわる夢ももう叶わない。
嵐を好きな人は死ぬほどいるのに、一緒に嵐を応援する人はいなくなってしまった。
それでも私は翔くんが好きだった。
熱量は変わってしまったけど、こんなにも好きだと思い続けられる人は翔くんしかいないと思った。だって初めて翔くんを見たあの日から、翔くんは私の目標でありヒーローだから。
でもその反面、好きでいることが辛いと思うようにもなった。とげとげした感情を持ってしまう自分が嫌で、心が疲れきっていた。
だからまだ翔くんを好きなうちに、翔くんから卒業しようと思った。
そんな気持ちを抱えて入った2018年の12月、20周年ツアー前半の東京ドーム公演。
2年ぶりに東京ドームに立つ翔くんを見た。
5万5千人を前にする翔くんはやっぱり世界一かっこよくて、もうずっと涙が止まらなかった。
正直、東京に向かう車の中も前日の布団の中でも、櫻井担を辞めることが辛くて大泣きしていた。もう小学6年生じゃない。大の大人が何してんだって感じだけど。
辞めたくないけどもう辞めた方がいいという思いだけで動いていたけど、結局私は櫻井担としてドームに行き、櫻井担として帰ってきた。
周りのことは気にしない。もう絶対に櫻井担を辞めるなんて考えるのはやめようと心に誓った。
それからしばらくした2019年1月27日。
嵐だけに愛を叫ぶ場所がほしくて翔くんのお誕生日に新しいアカウントを作った2日後の夕方。
ニュース速報で、嵐が無期限活動休止することを知った。
正直何が何だか分からなかった。頭の理解が追いつかない中、事務所からメールが届き5人が動画の中で喋っていた。
涙だけがひたすら溢れて、心臓の音が頭にまで響いた。
たくさんLINEが届いたけど、しばらく返すことができなかった。
怖くて仕方がなくて、テレビもヤフーニュースも見れなかった。
周りが嵐の話をすることさえ耐えられなかった。
5人が話していることは分かる。この人たちならこういう結論になるんだってことも分かる。むしろそれ以外あり得ないってことは誰よりも私達が分かってる。
でも、心が全然追いつかなかった。
毎日毎日、呆れるくらい涙が出た。
でも、crooz時代から仲良くしてくれる二宮担のお友達やJUMPをきっかけにツイッターで知り合った嵐ファンのお姉ちゃん達が本当に優しくて、時間はかかったけど少しずつ前を向き始めることができてきていた。
休止までの2年間、私なりに悔いの残らないように精一杯応援しようと心に決めた。
そんな中始まったand moreの当落。
2度に分けられた当落日の前半は、私の結果が出る日だった。
1人1回はコンサートに行けるよう、嵐が精一杯考えてくれたコンサート。
会見後からものすごい勢いで会員数が増えていったけど、ずっと応援してきたこの名義が外れることなんて正直1ミリも考えてなかった。
単に年に1度のツアーに外れたという問題ではない。
デビューからずっと応援していたグループが無期限での活動休止を発表し、おそらく休止前の彼らに会えるはずだった最後のツアーに外れた。
誰が悪いわけでもない。
でも、辛くて悲しくて苦しくて、どこにもぶつけられないこの想いはどうしたらいいの。
ツイッターを覗いたら、同じように昔からずっと応援してきた人たちが落選したというツイートをよく見かけた。
私がそこばかり目に付いただけかもしれない。
全員がツイッターをしてるわけじゃないし、誰かが統計を取ってるわけでもない。
でも、20年応援してきた人が外れて、記念に応募したような人が当たっているのはどうしても納得できない。
この先いつ活動再開するのか、そもそも活動再開する確約なんてない。
もしかしたら1年経ってけろっと戻ってきて、私も大げさに泣いちゃったな〜と思う日が来るかもしれないけど、でもこのまま静かに嵐は思い出となっていくかもしれない。
まだ当落発表の後半は残されている。
後半で当たればそれでいい。
ずっと応援してきた人たちがみんな入れればそれでいい。
でも、正直この抽選システムにこれっぽっちの信頼も無くなってしまった。
2019年、待ちに待ったお祝いの年はたくさん笑う予定だった。
みんなでおめでとうって言い合う予定だった。
でも、年が明けてから私はずっと暗闇の中にいて、遂に深い深い穴の中に落とされてしまったような気持ちになってしまった。
ファンなんて、好きになるのも離れるのも勝手。
別に誰かに強制されているわけでもないし、好きになったから、離れたからどうこうってわけでもない。
何年好きかってことも、その人以外には関係のないことだってことも分かる。
人にはそれぞれ出会うべきタイミングがある。
でも、歴なんて関係ないと好きになってまだ間もない人が言っていたり、何かにつけて『古株だからって偉そうに』と言われると心が悲しくなる。
『TOPになる』っていう夢をただ一緒に追いかけてきただけなのに、いつからこんな肩身の狭い思いをしなきゃいけなくなったんだろう。
なんで毎日毎日こんな悲しい思いをしなきゃいけないんだろう。
嵐を、翔くんを好きな気持ちはあの日からずっと変わらないけど、正直ちょっと疲れてしまった。